太地の遺産

先人たちが守り残してきたものが文化財です。文化財には、古い石塔など形があるものだけでなく、伝統芸能の技術そのものなど、形がないものも含まれます。貴重な植物などもまた、人々が大切に取り扱ってきたからこそ残っているのですから、やはり文化財といえるでしょう。
本ページは、平成27年末までに国、県、町によって指定された文化財をすべて掲載しています。しかし、文化財がすべて法律によって保護対象に指定されているわけではありません。本ページでは、未指定の文化財を含めて、先人達が守り残してきたものを文化遺産と呼ぶことにしました。
我々は、かけがえのない太地の文化財が、次の世代に受け継がれていくことを願っています。
  • 個人所有のもの、私有地内にあるもの、信仰の対象になっているものもあります。管理する方々の都合を最優先し、迷惑にならないように配慮してください。
  • 見学のために、文化遺産はもちろん、その周辺環境も傷つけることがないように注意してください。
  • がけ地など、危険な場所もあります。自己責任において安全に注意してください。

地図

こちらで紹介している全25のうち、24の文化遺産の所在地を記しています。
こちらからPDF版をご覧いただけます。

01.飛鳥神社

屋根は切妻(きりづま)造り、入り口は妻入りで、前に屋根が張り出し、拝むようになっています。色が付けられた彫刻、絵画、模様が施され、すべてが漆塗り(うるしぬり)、屋根裏も朱色が塗られた豪華なもので、桃山時代の神社建築様式が取り入れられています。

■町指定有形文化財
■名称:飛鳥神社本殿
■祭神:預母津事解男神
■指定年月日:昭和57年(1982)1月29日
■建造年月日:元禄3年(1690)10月

02.太地のくじら踊り

民芸保存会が継承しているくじら踊りは、綾棒(あやぼう)を銛に見立てて打ち振る「綾踊り(あやおどり)」と、両肌(もろはだ)ぬぎになり、太鼓のリズムに合わせて踊る「魚踊り(うおおどり)」の二つがあります。もとは2隻の持左右舟(もっそうぶね)の間に渡した板の上に座って踊っていたので、いずれも座踊(ざおどり)です。

■県指定無形民俗文化財
■指定年月日:昭和45年(1970)5月25日

03.太地水産共同組合

灯明崎の沖合いでは明治の末から大型の定置網魚魚が営まれ利益を上げていました。日下生甚蔵、庄司楠五郎らは、これを村の共同事業にするために「一世帯一株」という画期的な規約をつくり、大正5年(1916)に太地水産協同組合を発足させました。その利益は町や社会団体に還元され、町の発展に大きく貢献してきました。

■国指定登録有形文化財
■名称:太地水産協同組合事務所
■指定年月日:平成23年(2011)7月25日
■建造年:大正7年(1918)

04.大敷網を立て直した向井兵輔

太地水産共同組合は、経費がかさむ大敷部門の漁業権を大正11年(1922)に漁業組合に返上しました。漁業組合は、ナカダでニシンやサケの水産加工業を手がけて成功した向井兵輔に強力を頼み、太地漁業株式会社が発足しました。翌年の創業開始から好成績が続きましたが、10年の契約期間が終わると向井はためらいなく会社を解散して、漁業権を太地水産共同組合に戻したのでした。

■名称:向井翁頌徳碑(むかいおうしょうとくひ)
■建造年月日:昭和7年(1932)1月
■撰文・書:市川進(伊勢)

05.鯨骨の鳥居

江戸時代の小説『日本永代蔵(にほんえいたいぐら)』に、「泰地(たいじ)」という里の鯨恵比須(くじらえびす)の宮には、高さが三丈(約9メートル)もあるクジラの胴骨でできた鳥居があると書かれています。この創作に発想を得て、太地魚商組合によって昭和60年(1985)にクジラのあご骨でできた鳥居が建てられました。現在の鳥居は水谷誠氏の寄付によって平成8年(1996)に再建されたものです。

■恵比須神社(えびすじんじゃ)
■祭神:事代主命(ことしろぬしのみこと)
■石灯篭(宝永4年)一基

06.捕鯨の祖の墓

和田忠兵衛頼元(よりもと)は、泉州堺の伊右衛門と尾州師崎の伝次という人物の協力を得て、慶長11年(1606)から組織的な捕鯨業を始めました。墓は順心寺の和田家累代の墓地中央にあります。

■県指定文化財(史跡)
■名称:捕鯨祖和田頼元の墓
■指定年月日:昭和34年(1959)1月8日
■建造年月日:慶長19年(1614)2月17日

07.クジラの供養碑

捕鯨に従事していた浜八兵衛が建てたもので、クジラの殺生の罪が許されることを願って皆で妙典(法華経)をとなえていたことが書かれています。

■太地町指定記念物(史跡)
■名称:亡鯨聚霊塔
■指定年月日:昭和59年(1984)2月23日
■建造年月日:明和5年(1768)3月18日

08.徳本上人(とくほんしょうにん)の石碑

徳本上人(とくほんしょうにん)は念仏をとなえて全国をまわった僧です。上人が書いた「南無阿弥陀仏」の文字を写した石碑は日本各地に建てられています。この石碑はクジラの供養碑を建てた浜八兵衛の子孫が建てたものです。

■町指定記念物(史跡)
■名称:徳本上人の名号石
■指定年月日:昭和59年(1984)2月23日
■建造年月日:文政7年(1824)10月

09.岩門(せきもん)

この洞窟は和田の岩屋(わだのいわや)とも呼ばれてきました。この石の門の内側に太地捕鯨を始めた和田家の祖先がかつて屋敷を構えていたからです。

10.漂流人紀念碑

明治11年(1878)12月24日、子連れのセミクジラを追って沖へ出た捕鯨船団は悪天候のため遭難し、百名以上が帰らぬ人となりました。和田金右衛門頼芳が残した『脊美流れの控へ』によると、出漁の翌朝には捕鯨作業は終わりましたが、沖に流されたので戻るのに時間がかかりました。夕方にはクジラも捨て陸を目指しましたが、夜に入って西風が強くなり、多くの舟はついに戻らなかったのです。

11.自生リュウビンタイの群落

リュウビンタイは葉の長さが2メートル以上になる大型の地上生常緑シダ植物で、日本では伊豆以西の太平洋側の暖かい地域に自生しています。熱帯や亜熱帯に分布している植物の仲間なので、この谷のように温帯で群落をつくることは珍しかったのですが、今はでは町内の他の谷筋でも大きな群落が見られるようになっています。

■町指定記念物(天然)
■指定年月日:昭和44年(1969)9月8日

12.吉備真備漂着記念碑

遣唐使であった吉備真備(きびのまきび)が、唐から戻るときに遭難して紀伊国の「牟漏崎(むろざき)」に漂着したと『続日本紀』に記されています。『紀伊続風土記』には、太地の灯明崎こそがその「牟漏崎」であるという説が紹介されています。また石原正明(江戸時代の国学者)は、真備の子孫の与呂子右衛門(よろこえもん)が太地を拓いたという伝承を書き残しています。

13.支度部屋(したくべや)の跡

灯明崎の山見(やまみ)で働く人々は、クジラがやって来るのを夜明けからずっと見張っていました。彼らはここにあった支度部屋(したくべや)で食事をしたり休んだりしました。古式捕鯨が終わった後に撤去されて、今は何も残っていません。

■町指定記念物(史跡)
■名称:古式捕鯨支度部屋跡
■指定年月日:昭和57年(1982)1月29日

14.捕鯨の狼煙場(のろしば)

山見でクジラを見張る人々は、クジラの潮吹きを発見すると狼煙(のろし)を上げたり、ほら貝を吹いたりして海上で待っている鯨舟に合図を送りました。

■町指定記念物(史跡)
■名称:古式捕鯨狼煙場跡
■指定年月日:昭和58年(1983)3月24日

15.狼煙(のろし)の中継所

ここは高い場所になっているのでまわりがよく見わたせます。梶取崎に狼煙(のろし)が上がると、港に近い向島(むかいじま)の山見に合図が伝わるように、ここでも狼煙を上げました。

■町指定記念物(史跡)
■名称:古式捕鯨高塚連絡所跡
■指定年月日:昭和58年(1983)3月24日

16.鳴子岩(なるこいし)

この大岩を石でたたくと独特な音がするので、昔の人々が音の違いによって天気を占ったともいわれています。

17.梶取崎のクジラ供養碑

毎年4月29日に捕鯨OB会の主催でクラジの供養祭が開催されます。

■建造年月日:昭和54年(1979)3月

18.夫婦いぶき

木の幹周りが、一本は3.3メートル、もう一本も3.2メートルあります。とても古い木なので、江戸時代に海を見張っていた遠見番所の人が植えたものかもしれません。今も熊野灘の強い潮風に負けず行き続けるこの夫婦いぶきは、梶取崎の象徴として大切にされています。

■町指定記念物(天然)
■名称:夫婦いぶき(イブキビャクシン)
■指定年月日 昭和58年(1983)3月24日

19.強風にさらされる林

梶取崎北側のがけ地には、トベラ、ハマヒサカキ、ヤブツバキなどの丈の低い樹木がじゅうたん状に密生し、上部が斜面と平行になびいた特有の景観が見られます。このような林を「風衝林(ふうしょうりん)」と呼びます。梶取崎など海岸の岩場や崖地は植物の根が張りにくいうえに、常に強い潮風にさらされるためにできたものです。

20.梶取崎の石文(いしぶみ)

梶取崎のがけを降りたところにある大岩に、「網方沖合」つまり網舟の責任者であった孫右衛門が石工の喜吉に彫らせたもので、古式捕鯨時代の史跡として貴重です。しかし何のために制作されたのかは不明で、同様の石文も他に見当たりません。

■制作年月日:宝暦4年(1754)極月(12月)

21.向島の弁天さん

京都で作られたもので、もとは太地角右衛門(かくえもん)の屋敷に祀られていました。元文5年(1740)、後に東明寺初代住職となる梅竜和尚によって開眼供養が行われ、向島山頂に近い現在の場所に移されました。平成27年(2015)に修復が行われました。

■町指定有形文化財
■名称:木造弁財天像
■指定年月日:平成7年(1995)7月25日
■製作年月日:貞亨3年(1686)7月

22.古式捕鯨の勢子舟(せこぶね)

鯨舟は、クジラを追う勢子舟(せこぶね)、獲物を運ぶ持左右舟(もっそうぶね)、網を張る網舟(あみぶね)に分けることができます。勢子舟には非常に派手な模様が描かれており、『紀伊続風土記』には、太地の鯨舟は「何れも皆龍虎華を彩色し五色爛然たり」と記されています。勢子二番舟水押(みおし)には、鯨方宰領である太地家の家紋である井桁と竹笹が、五番舟の棚板(たないた)には檜扇(ひおうぎ)の意匠が描かれています。これらはくじらの博物館に展示されています。

■町指定有形文化財
■名称:勢子二番舟水押と勢子五番舟棚板
■指定年月日:平成26年(2014)3月25日

23.近代捕鯨の銃砲

くじらの博物館は、捕鯨に使われた様々なスタイルの銃砲を所蔵しており、そのほとんどが県指定文化財になっています。博物館3階には人とクジラの関係の歴史に関する資料が、2階には骨格標本や液浸標本などクジラの生態に関する様々な資料が展示されています。

■県指定有形文化財(歴史)
■名称:近代捕鯨銃砲22基
■指定年月日:平成19年(2007)6月12日

24.石垣栄太郎

太地をはじめ紀南の村々から北米西海岸に大勢の人々が出稼ぎに行った時代がありました。石垣栄太郎は明治42年(1909)に15歳でカナダのビクトリアに渡り、次にシアトル、サンフランシスコ、そしてニューヨークへ移りました。一環して社会の中で虐げられた人々の姿を描き続けたのは、彼もまた名もなき出稼ぎ労働者のひとりとして不当な扱いを受けたことがあったからでしょう。綾子夫人が創設した石垣記念館は平成14年(2002)に町立となり、栄太郎の作品や夫妻が所蔵していた資料が保管、展示されています。

■名称:石垣記念館
■創設年月日:平成3年(1991)6月2日

25.夏山の石碑と五輪塔

宝徳4年(1452)に建てられたこの石碑は太地で最も古いもので、男女2名の供養碑と考えられます。男性の戒名は道空禅門、女性(禅尼)の方は判読できません。石碑を建てた願主の一人は泉阿(せんあ)という行者で、宝徳2年(1450)に近くの弁財天神社を建てた但馬一宮出身の千阿(せんあ)と同一人物でしょう。もう一人の願主名は判読困難ですが、南都(奈良)に住む橘光次でしょうか。
石碑の背面にある「十穀」とは十穀聖のことです。泉阿は穀物を絶って、岩屋寺として開山した洞窟で修行したのでしょう。五輪塔にも泉阿の文字が刻まれているはずですが判読困難です。

■六字名号碑
・南無阿弥陀仏 道空禅門□□禅尼 
・宝徳四年六月廿一日建之 願主泉阿南都住人□光次
・岩屋寺開山 十穀
■五輪塔
・岩屋開山 泉阿
・三月廿一日
※□=判読困難な文字

日本遺産「くじらとともに生きる」

紀州太地捕鯨大漁之図鯨全體之図
鯨は、古来より、日本人にとって富をもたらす神“えびす”であった。浜辺に打ち寄せられた鯨の肉を食し、皮や骨、ひげで生活用品を作るなど、全てを余すことなく利用してきた人々は、この“海からの贈り物”に感謝し崇めながらも、やがて自ら捕獲する道を歩み始める。
熊野灘沿岸地域では、江戸時代初期に組織的な古式捕鯨(網で鯨の動きを止め、銛を打つ漁法)が始まり、地域を支える一大産業に発展した。現在も捕鯨は続けられ、食・祭り・伝統芸能などが伝承され「鯨とともに生きる」捕鯨文化が息づいている。